作家のくせに三年寝てました

これまでの仕事 その2〔'90〜'〕

書いた日 99/03/31

 ●ぱったり書けなくなるまで  三部作で終わるはずの水淵季里のシリーズが二冊で終わって、ちょうど担当者も異動になって、アニメージュ文庫との関係がいちおう、切れました。テープ起こしの仕事は来るんだけど、小説の話はない。
  いま考えると、まめに顔を出して企画書持ち込んで、つながりを維持するのが当たり前なんですが、何しろ世間知らず、アニメージュ編集部から外へ出たことがないから、何も知らないんです。アニメージュ文庫では横のつながりがないので、同業者の知り合いも、ひとりもいないし、教わりようもない。
  それでも、これではいかんな、と思って、持ち込みの原稿を書き始めます。収入は書店のバイトだけでしたし、しかも90年に二冊本が出た余勢をかって、結婚しちゃったんですね。背水の陣……というほどには、実は焦ってませんでした。驚くほどのんきでした。もう四冊も書いてるんだから、大丈夫だ、と思っていたのですね。怖いなあ。
  で、長篇を二本書いて、持ち込みの開始です。その他に、一社、仕事でおつきあいのあった方が編集者になった所へ、企画書を持ち込んでいたのですが、何度書き直しても通りませんでした。企画書の書き方も知らなかったんです。
  持ち込み原稿のほうは、というと、まだバブルがはじけてなかったのかな……会って、読んではもらえたんですが、これでは使えない、と言われたのが三社。人物がアクティヴではない、とか、世界観が分からない、とか。
  その原稿を、最後に預けた所が、今度、小説をやめるので、――と返してくれました。'98年のことです。読み返してみて、「こりゃあ出ないわ!」と納得してしまいましたね。ぼろぼろなんですもの。出ない物には、出ないだけの理由はありますわな。
  その基本設定を下敷きに、まったく違う話にしたのが、『世界線の上で一服』('99.4 プランニングハウス)です。
  もう一つ、ホラーを持ち込んだ会社からは、厳しい直しが入ったものの、がんばればなんとかなりそう、でした。で、直し始めた矢先、突然、だめになってしまいました。一字も、書けなくなってしまったんです。
  今から思うと、それも必要なことだったんでしょうが、目の前が真っ暗になってしまいました。というのも背水の陣で、書店のバイトをやめちゃったんです(引っ越したせいなどもあって)。食えない……。
  この頃、何をしていたか、記録がなくて思い出せません。記録する気力もなかった、という感じです。とにかく小説が書けないから、『アニメージュ』でのお付き合いで、雑誌やムックの仕事をしたりしていた、かなあ。ほんと、茫然としてました。
  ただ、私は困っていると、誰かが助けて下さるんです。ありがたい限りです。この頃にやった大きな仕事は、二つでした。


 1991〜94 雑誌『コサージュ』の連作短篇

  『コサージュ』は、季刊の少女マンガ雑誌です。創刊するときに、理由は知らないのですが、短編小説を載せようということになった。で、川原由美子さんの所へ「誰かいないか」という話があったらしく、「やってみますか」と言われたのです。
  こっちはもうだめだあ、と思っていたし、一も二もありません。とにかく小説の仕事がないから、全力投球していました。
  少女マンガ誌ということで、リリカルな短篇を、と29歳の駆け出しカメラマンの青年が、毎回、どこかの建物を撮りに行って、少女と出会う、といった話になりました。洋館建築に興味があったからです。   これは、創刊から休刊まで続きました。全部で、11作ですね。編集者の西村さんが、お話というものの分かった方で、うまく導いていただきました。
  この頃に、パソコン通信を始めます。お金がないので、当時『EYE・COM』がやっていたネットに参加していましたが、雑誌がややマニアックだったせいもあって、読んでくれている方が多く、おかげでネット内では好評でした。川原さんが書いていたので前の長篇から読んで下さる方もいて、楽しいお仕事でありました。
 でも、季刊誌です。原稿料は悪くなかったのですが、食えません。


 '91 CD『強殖装甲ガイバー』イメージアルバム 徳間ジャパン 

ガイバーイメージアルバム  ここから先が、また長いんです(すいません、どうも)が、そろそろお時間が尽きましたので、次回の更新をお待ち下さい。途中でごめんなさい。



 続きを読む  前のページへ戻る  プロフィールのページへ戻る  トップページへ戻る